少年千畝像、瑞穂ヶ丘中学校に設置

 

 2020年は杉原千畝「命のビザ」発給80年の節目の年でした。

 名古屋市では、千畝の“第二次世界大戦中における功績”と“名古屋とのゆかり”を広く伝えていくため、千畝が勉学に励んだ旧第五中学校にある遺構(現在の瑞穂ヶ丘中学校に残る車寄せ・石階段)の近くに、皆さまから募った寄附金で杉原千畝の少年像を制作しました。

 

<少年像 「勇氣」千畝十六歳> について

設置場所:瑞穂ヶ丘中学校に残る旧第五中学校の遺構付近(車寄せ・石階段)

サイズ:約1.6メートル

制作者:彫刻家 山本 眞輔(やまもと しんすけ)氏(日本藝術院会員、名古屋市在住)

 

一般公開

 普段は自由に入れない学校内の少年像を一般公開します。申し込み不要、自由見学。

日時:令和3年4月11日(日) 9:00~16:00

 

注意 歩っ歩会で「千畝十六歳」像を見学するのには瑞穂ヶ丘中学校の許可が必要と思います。




歩っ歩会「杉原千畝人道の道」独り歩き

 

 コロナ禍のため今年度(2020)の歩っ歩会行事はすべて中止となりました。予定訪問先の多くは過去に実施されたことのある場所と思われますが、9月実施予定だった杉原千畝広場(瑞穂区)は未経験です。提案した責任上、秋晴れの一日、独りで訪れてみました。

 

 名古屋市では杉原千畝の功績を讃えて、千畝の少年時代の居住地付近(中区平和1丁目、平和小学校付近)と出身校・愛知県立第五中学校(現・瑞陵高校)とを結ぶ道を「杉原千畝人道の道」と名付け、銘板6ヶ所、案内板2ヶ所を設置しました。平和小学校から瑞陵高校まで、約4kmです。平和小学校の近くには名城線東別院駅、瑞陵高校近くには桜通線瑞穂区役所駅があり、また途中には名城線金山駅、西高蔵駅がありますから、必要に応じて利用できます。

 

 地下鉄桜通線瑞穂区役所駅4番出口から西へ約5分で瑞陵高校正門に到着、右に銘板、左側に「杉原千畝広場 センポ・スギハラ・メモリアル」があります。

 

 ここを見学して引き返すのでは歩行時間はわずかに10分、「ウォーキング愛好家の同好会」の趣旨に反します。「人道の道」を少し歩いてみましょう。

 

 瑞陵高校前の道をさらに西に数分、斜め前方に「Valor」を望む交差点に達します。この交差点を右折、八幡宮の横を通って数分で瑞穂ヶ丘中学校正門、その脇に銘板があります。

 

 ここで左折して西に向かい、雁道商店街を通って雁道交差点、さらに西に進み新堀川を渡って名古屋市体育館に到着、道路に面して銘板があります。そのまま西に進み、JR東海道本線を越える長い歩道橋を渡ると高蔵交差点に達します。

 

 高蔵交差点から北に進めば「人道の道」の出発点平和小学校に達するのですが、私はここから先は御免蒙って西に直進、地下鉄名城線西高蔵駅から地下鉄を利用して帰宅しました。歩数約8000歩でした(小野)。


瑞陵高等学校(旧・第五中学校)正門

正門横の「杉原千畝広場」








瑞穂ヶ丘中学校正門、構内に千畝16歳像がある

瑞穂ヶ丘中学校正門脇の銘板



名古屋市体育館

体育館前の銘板




歩っ歩会参考資料


瑞穂区役所駅-瑞陵高校-瑞穂ヶ丘中学校 付近の拡大地図


杉原千畝広場(センポ・スギハラ・メモリアル)

 場  所:愛知県立瑞陵高等学校 正門西側 

 アクセス:地下鉄桜通線 瑞穂区役所駅 4番出口 西へ約400m 


杉原千畝(1900-1986)日本の外交官。岐阜県生まれ。

 1917(T6)年、愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)卒業。早稲田大学入学、1919年、外務省留学試験に合格、ロシア語を学ぶ留学生として、ロシア人が多く暮らす中国東北部のハルピンに向かった。

 1924(T13)年、外務書記生任命、1925年、ハルピンの日本総領事館に勤務、満州国外交部、日本外務省を経て1937(S12)年、在ヘルシンキ日本公使館に赴任、1939(S14)年、リトアニアの在カウナス日本領事館の領事代理となる。

 1940(S15)年7月18日の早朝、ポーランドからリトアニアに逃亡してきたユダヤ系避難民が、ソ連によるリトアニア併合の動きから早急に国外へ脱出の必要を感じ、日本領事館に通過ビザを求めて大勢殺到した。外務省はビザ発給を禁じたが、杉原は人道上の見地から職を賭して2000通を越えるビザを発給した。

 日本通過ビザを手にしたユダヤ避難民は、シベリア鉄道でウラジオストク、敦賀港を経て神戸や横浜からアメリカ、カナダなどに渡った。

 1985(S60)年、85歳になった杉原千畝に、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」が贈られた。




●「杉原千畝 人道の道」の設定 ~名古屋市役所総務局総合調整室~

 「命のビザ」で知られる杉原千畝は第二次世界大戦中、迫害から逃れようとするユダヤ系避難民に2、000通を超えるビザを発給し、多<のユダヤ人を救いました。千畝は少年期の約10年間を名古屋で過ごしました。当時の居住地付近(中区平和一丁目)から出身校である県立第五中学校(現在の県立瑞陵高校)を結んだルート約4.5kmを「杉原干畝 人道の道」と名付け、銘板などを設置して杉原千畝の功績と、名古屋とのゆかりを伝えます。 


 

 

リトアニア カウナス 

杉原記念館 (旧領事館)

 

 

(2015.06.03  以下の写真撮影:小野)


 

 

日本通過ビザを求めてユダヤ人が詰めかけたという門