振甫プールの歴史

 


 碑の裏面に「振甫プールの歴史」が記されている(下の写真)





 以下の記事の多くは、2019/09/28~29に開催された「ちくさ生涯学習まつり」の「前畑秀子パネル展」から引用しました。


振甫プールの誕生

 名古屋の市営プールとしては、昭和8年7月完成した振甫プールが最初である。それまでは、中区矢場町に共楽園プール、同七本松町に七本松プール、若干の私営のプールがあったのみであった。公設のものとしては、わずかに一部の中学校、高等専門学校が25mプールを有していたに過ぎずこれらはもっぱら自校の生徒を対象としたもので、一般市民は全然その恩恵に浴することができなかった。したがって市民の水泳は多く海、河川、池沼等で行われていた。危険性は今も昔も同じであるが、ただ現在と違う点は水質が非常に良質であったので、あまり苦痛を感ずることがなかったことである。

 しかしながら、100万都市の名古屋市に市営ブールがひとつぐらいあってもよいと、その設置の声はかなり前から叫ばれていた。たまたま、昭和7年8月第10回オリンピック大会がロスアンゼルス(現在はロサンゼルス)で開かれた際、日本が水泳競技種目のほとんどに優勝し、水泳に対する国民の認識が高まってきた。これに刺激された点もあって市営プール設置の世論が急速に盛り上がってきた。

 市においても、国民体育の向上と健康増進の見地から市営プール設置の必要を認め、水道付帯事業として計画を立て、昭和7年11月22日市会の議決を経て昭和8年1月起工し、昼夜突貫工事で同年7月総工事費  59,694円(当時米60kg約11円の時代)で完成した。これが飛込プール、50mプール、25mプール、徒渉池を含む現在(昭和39年当時)の振甫プールであって、その規模は東京の神宮プールにほぼ同じであった。

 こうして、振甫プールが100万市民の前に威容を現わした。市民は喜び、誇りとした。名古屋の名所が一つふえたわけであった。

 7月1日竣工式を行い、前オリンピック選手の模範水上競技大会を催し、また、市営バスの記念乗車券を発行するなどしてその開場を祝った。その年の入場者は、実に130、024名の多きに達したのである。

     (「名古屋市水道50年史」第2章プール事業(昭和39年発行)より引用)

  

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 有終の美を飾った振甫プール

 昭和8年に開場した振甫プールは、太平洋戦争前にも全国大会が開催されるなど、日本を代表する競泳プールの一つで、「前畑ガンバレ! 前畑ガンバレ!」で有名な故兵藤(旧姓前畑)秀子さんは、このプールで当時の世界記録をマークしました。戦火が厳しくなった昭和19年に豊田、児玉、向田、杉村、松元プールの4プールが休場を余儀なくされる中、振甫プールだけは最後まで開場しました。

 幸い戦火を逃れた振甫プールは、戦後昭和22年に開場。その後は数々の世界大会が開催され、日本を代表する故古橋廣之進選手が記録を残すなど、競泳プールとしてはもちろんのこと、同時に名古屋市民を元気付ける憩いの場として、数多くの市民の方々が訪れました。

 昭和42年に瑞穂運動場に瑞穂プールが完成し、競泳プールとしての機能が瑞穂プールヘ移行する中、老朽化などから、昭和47年に振甫プールは一端閉場することとなりました。閉場イベントの際には、故兵藤秀子さんが、振甫プールでの思い出を語るなど、振甫プールに駆けつけました。

 振甫プールは、競泳プールとしての役割を終え、市民向けプールとして生まれ変わり、昭和49年に開場しました。同敷地内に、昭和50年には「千種社会教育センター」及び「千種体育館」(現在は、両施設一体で「千種生涯学習センター」)を開館、昭和51年には「千種児童館」が開館しました。

 市民プールとして生まれ変わってからも、引続き、数多くの市民の皆さんが利用した振甫プールでしたが、老朽化などから平成21年3月31日をもって、その歴史に幕を下ろすこととなりました。

 廃止後は、地元の皆さんの声などにより、高見小学校でプールが開放され、引続き地元の子どもたちの泳ぎの場が提供されることになりました。また、振甫プールの歴史を讃える記念碑の建立にあたっては、振甫プールにゆかりのある故古橋廣之進(当時)日本水泳連盟名誉会長に、記念碑の題字の揮毫を依頼し、その思いが刻まれることとなりました。なお、題字を頂いたのは、故古橋会長が国際水泳連盟副会長として出席していたローマ(第13回FINA世界水泳選手権大会開催地)で亡くなる直前の平成21年6月のことでした。

参考文献:「名古屋市水道50年史」名古屋水道局編、1964年

     「水泳愛知の歩み」愛知水泳連盟事務局編、2005年

 

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前畑秀子~日本人女性初の金メダリスト

生い立ち

  前畑秀子が生まれたのは1914(大正3)年5月 20日、和歌山県橋本市で豆腐屋の5人兄弟の1人として育つ。実家の近くの紀ノ川で幼少期から水泳に慣れ親しみ、小学校時代には水泳の才能が開花し、日本新記録や汎太平洋女子オリンピックで優勝するなどの活躍をした。しかし実家の経済的事情で水泳の継続が困難になり、前畑は水泳を断念することを決めていた。

 当時から運動を奨励していた椙山女学園には、国内では珍しい室内プールがあり、初泳ぎには前畑を招待した。前畑の才能を惜しむ橋本の小学校校長と椙山正弌学園長との相談で、前畑は椙山に編入する。その後、前畑は、相次ぐ両親の死を乗り越え、椙山での練習を通して日本を代表する選手へと育っていく。

 

オリンピックでの活躍

  1932(昭和7)年には、ロサンゼルスオリンピックに出場。前畑は女子平泳ぎ200mの決勝で2着、3分6秒4で、銀メダルであった。一着でゴールしたオーストリアのデニスは、3分6秒3で、わずか0.1秒差であった。

 ロサンゼルスオリンピックの4午後の1936(昭和11)年、ベルリンオリンピックが開催された。前畑は日本国民の期待を背負い、優勝を目指して毎日2万メートルを目標に厳しい純習を実行していたが、レース前夜は眠れず、食事ものどを通らないほどの大きなプレッシャーを抱えていた。

 8月11日、女子・平泳ぎ200mの決勝で、前畑は3分3秒6の1着でゴールし、金メダルを獲得した。2着はドイツのゲネンネルで、3分4秒2.その差はわずか0.6秒であった、

 この瞬間、前畑秀子はオリンピック史上、日本人女性初の金メダリストとなった。

 このレースの時日本は深夜であったが、NHKアナウンサーが「前畑ガンバレ!」と何度も繰り返したラジオの実況放送が流された。国民はこの放送に耳を傾け、日本中が湧き、多くの人の記憶に刻まれた。

 

社会的活躍・晩年

  ペルリンオリンピックの実況放送により前畑秀子の名前は日本中に知れ渡り、国民的英雄となっていた。そんな中で、オリンピック翌年の1937(昭和12)年に兵藤正彦氏と結婚する。2人の男の子にも恵まれ、戦争など社会の波に翻弄されながらも、開業医として働く夫を支えて暮らした。

 秀子が45歳の時、夫の正彦が脳溢血により急死、秀子は2人の子どもを育てていくため、椙山女学園の医務室勤務兼水泳コーチとして働くこととなる。秀子が教えた水泳部は続々と新記録を出した。

 子どもの独立を受けて椙山女学園を退職した後も、市営瑞穂プールに水泳教室を誕生させるなど、積極的に次世代の育成へと取り組んだ。脳溢血などの病気に罹った際も、リハビリを続けて後進の指導にあたり、晩年まで水泳への思いが途切れることはなかった。

 そして1995(平成7)年2月24日、多くの人に惜しまれながら逝去した。 

 

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ベルリンオリンピック金メダルの号外

昭和11年8月12日 報知新聞

左:前畑秀子 右:小島一枝