学区紹介・年表




 ●高見学区の範囲


 ●高見学区の位置


 高見学区の紹介

  高見学区は、千種区の西方中央部に位置し、地下鉄「池下」の駅前から北方向に延びた道路を境に、西は平坦地、東は起伏に富む丘陵地となっています。「高見」の名は、このあたりが古代洪積期にできた大地の東端に位置し、平山としての高さがあつたところに由来しています。この荒涼とした大地は江戸時代「名古屋新田」として田畑の開墾が進められ、農村地帯となりましたが、明治末期になって製陶工場や繊維工場の進出により都市化がはじまりました。 
 大正6年(1917)、高見二丁目の現セントラルガーデンの地に愛知織物(株)の大工場、翌年には、現千種公園とその近辺の地に陸軍造兵廠千種機器製作所が設置・操業されたことを境に人口の激増をみて、工場のまち、住宅地域へと変貌し、仲田の商店街は工場に働きに来る人々で大変賑わいました。その人口増に伴い、昭和8年(1933)9月1日に高見尋常小学校が創設されました。開校年の児童数は1,234人でした。しかし、その繁栄もつかの間、昭和20年(1945)の空襲で商店街や機器製作所も焼け、学区の約3分の2が焼土と化しました。 
 戦後、機器製作所の跡地には、千種公園、東市民病院(現東部医療センター)、若水中学校、県立千種聾学校、公務員住宅、市営住宅、そして近年では民間の大規模マンションが建設され、文教住宅地域としての学区を特徴づけることとなりました。 
 かつてこの地には灌漑用の池として「蝮ヶ池」、「振甫池」、「鉄砲坂池」がありましたが、フナやウナギがとれた約6,000坪の「蝮ヶ池」は大正末期に埋め立てられ、現在は地下鉄「池下駅」、愛知厚生年金会館の跡地には超高層マンションが建設されました。その広大な池は、今では駅から北東の少し離れたところの小池となつて「蝮ヶ池龍神」が祀られています。また、二つの池も埋め立てられ、その跡地に昭和8年(1933)「市営振甫ブール」が建設されましたが、規模の縮小を経て平成21年(2009)に閉鎖され、現在は市上下水道局千種(営)に姿を変えました。なお、昭和44年(1969)以降、「千種税務署」、「千種社会教育センター」(現生涯学習センター)、「千種児童館」、「振甫保育園」も開所しました。町名の「池下」は蝮ヶ池の下にあったから、「振甫」は江戸時代の明国の帰化人、張振甫に由来するものです。 
 こうした歴史に加えて、春には満開の桜で市民の目を楽しませてくれる「水道みち緑道」もあります。昭和8年(1933)に設立された「高見学区連絡協議会」は “みんなで実現、安心、安全、快適な高見学区" をスローガンに、永年にわたり地域の課題や諸行事等に積極的に取り組んでいますが、その活動拠点として平成17年(2005)4月に「高見コミュニテイセンター」が開設され、学区諸団体の会議、集会や住民の教養、文化活動など、ふれあいと交流の場として多くの方々に利用されています。 高見学区は、池下ターミナルビルを中心に商業地域として、また学区の東側の丘陵地や千種公園、水道みち緑道など、緑に囲まれた住宅地、文教地域として、ますます発展し続けています。

(冊子『高見まちづくり構想』(高見まちづくり実行委員会・高見地域委員会 平成26年3月発行)から引用)