町 名 物 語

 

文 西部 啓一


 町名物語 第六回  向陽(こうよう)町、向陽一丁目

 

 向陽町は、昭和20年成立。昭和55年、住居表示により一部が向陽一丁目にかわりました。町名は、当地にあった料亭「向陽館」の名にちなんでつけられました。

 向陽館については、中日新聞(平成27年3月27日、市民版)で東海一の料亭として取り上げられています。その記事によると、昭和5年につくられ、昭和20年3月の空襲で焼失したとのことです。

 当時の「割烹向陽館ご案内」をみると「当向陽館は、敷地総面積約三千坪、四囲緑林に囲まれ、南面の丘陵地にあつて、閑雅幽邃(ゆうすい)渓谷の美観を以て知られ、交通便利な市街地東郊にありながら、その身は恰も温泉のある山峡にでもあるかの如く、弊館名物の澤の湯、ばらの湯、菊の湯並に雨月荘は、いよいよその情趣を深め『浴場と割烹の向陽館』とさへ喧伝さるゝに到つたのでございます」とあります。なんとも大層な料亭があったわけですが、いったいどこにあったのでしょうか。

 この「ご案内」によると「覚王山池下電停北」とあります。また、この頃池下から本山あたりのまちづくりを行った田代土地区画整理組合の「鳥瞰図」(昭和12年1月、組合のパンフレットのようなもの)をみると池下の淑徳女学校の北に向陽館があります(上の図)。さらに「田代土地区画整理組合道路網図」(昭和13年1月現在)をみると、ありました。向陽館が出ています(下の図)。

 いま現地を歩いてみると、静かな住宅地で、結構急な坂になっています。

 

※ 田代土地区画整理組合は、昭和4年設立、昭和22年解散。「向陽館ご案内」と「道路網図」については、(公財)古川知足会・伊藤事務局長さんから教えていただきました。

※ 今回で「町名物語」は終わりです。いままで参考にした資料は、インターネットや図書館で閲覧できるものがほとんどです。調べる過程でいろいろな発見があって、いい経験になりました。



 町名物語 第五回   池下(いけした)町、池下一・二丁目

 

 池下町は、昭和55年その一部が住居表示により池下一・二丁目にかわりました。町名は、蝮ヶ池まむしがいけの下にあったことによるとされています。

 蝮ヶ池は灌漑用のため池で江戸時代に築造、面積19,800㎡、周囲約950mあったそうです(下の地図)。大正11年埋め立てられました。現在は、地下鉄池下駅や超高層マンションが建っています。

 昭和6年に池跡地に市電の池下車庫が完成。車庫の東側には愛知淑徳高等女学校が東新町から移転してきています(昭和3年)。

 

 地下鉄栄町(現:栄)・池下間の開通(昭和35年)に先立ち愛知淑徳高校は桜が丘に移転。校地は市電車庫とともに地下鉄車庫になりました。その後藤が丘車庫の完成とともに池下の地下鉄車庫は廃止され、昭和551666名収容の多目的ホールを有する愛知厚生年金会館が開館しました。平成20年厚生年金会館は閉館。跡地には超高層マンションが建ちました。

現在は、蝮ヶ池の底だった一角に竜神がまつられている(写真右)だけで、大きなため池の面影は全くありません。

  

地図の説明 大正時代の地図 地図中心の南にある池が蝮ヶ池

  下の地図は、名古屋都市センターHPの「まちづくり情報システム」からとったもの。システムでは明治~平成の各地図を比較対照したり、かつてのため池が今のどのあたりかを重ね合わせてみることができます。 



町名物語 第四回   仲田(なかた)一・二丁目

 

 仲田は江戸時代の古井村の字名で、仲は中、「かみとしもの中間にある田」の意味であると考えられています。

 大正8年陸軍造兵廠千種機器製作所が操業を開始し、仲田電停まで幅15mの仲田本通が造られました。従業員の通勤路になったこの通りの両側には、昭和になって商店が建ち並ぶようになりました。

 とくに昭和12年の日中戦争が始まった頃から、工廠は昼夜2交替制となって5万人の従業員をかかえ、交替時間の朝夕の7時前後には工員で道路がいっぱいになりました。土曜や日曜の夜には露店も出て近隣の人々を集め、仲田本通は中央線以東で最大の盛り場に発展しました。 

 写真(左)は「千種区史」に載っているものですが、仲田の商店街が大層な賑わいだったことがわかります。

 しかし、その繁栄もつかの間、昭和20年3月25日早朝の空襲で商店街は焼け、工廠も空爆で破壊され廃墟になってしまったのです。

 筆者は、昨年7月の夕刻、孫と仲田本通を訪れました。折しも仲田夏まつりの真っ最中で、すごい人出。戦前の賑わいもこのようなものだったかという感がしたものです。

※ 仲田商店街についての記述は、おおむね小林 元「千種村物語」(1984年)によっています。著者は、仲田で少年時代を過ごした郷土史家。この本は、千種区を中心に名古屋の城下町の東方の変遷を記述したもので、まちの昔の姿を知るうえで大変参考になります。

仲田本通(昭和15年頃)

仲田夏祭り



町名物語 第三回   高見(たかみ)一・二丁目

 

 現在の町名は、昭和55年、住居表示の実施により成立しました。その前は高見町です。

 高見は旧千種村の字名で、高は鷹とも書くことから、鷹を見るところの意味からつけられたとする説と、平山としての高さがあるということからつけられたとの説があります。

 高見二丁目には、マンションと商業施設からなるナゴヤセントラルガーデンがあり、緑豊かな美しい街なみで多くの人で賑わっています。この場所は、十年ほど前はJR(国鉄)の宿舎でした。調べてみると、その前は織物工場がありました。

 一帯はかつて水田が広がる農村でしたが、百年ほど前の大正6年に、その水田の大部分を現在のタキヒョーにつながる愛知織物合名会社が買収し、工場を建設しました。10万錐の機械と900人の従業員をかかえていたということです。戦争になって工場は呉羽紡績株式会社に合併され、やがて戦災を受けて焼失しました。

 戦後、敷地は国鉄に買収され官舎がつくられ、国鉄職員の団地となったのです。

筆者は若水中学校の第一回生ですが、同級生には国鉄アパートの子が何人もいた覚えがあります。ちなみに昭和39年3月の卒業アルバムの名簿を見ると、卒業生6クラス297名のうち32名になります。住所は、一様に「高見町4の4 国鉄アパート」となっています。

 

旧JRアパート

旧JRアパート配置図



 町名物語 第二回  若水(わかみず) 一~三丁目

 

 この辺りは、昭和55年まで茂左裏・茂左西という字名が残っていました。これらの字名は、織田信秀(織田信長の父)の家臣服部茂左衛門の屋敷があったことからつけられたものとされています。

一丁目・二丁目の辺りは陸軍直営の兵器工場がありました。大正8年開業の陸軍造兵廠千種製造所です。当初は今の東部医療センターの辺りに工場があり航空機用エンジンを組み立てていましたが、昭和12年に日中戦争が始まる頃には敷地いっぱいに工場が建てられ銃器の量産工場となりました。

そして昭和20年3月以降数度の空襲により甚大な被害を受け、69名の方が亡くなっています。千種公園の南西にある児童公園の南に慰霊碑が立っています。その傍らには爆撃の跡が残る工場の外壁があります。

慰霊碑 

移設された外壁



 町名物語  第一回  振甫町(しんぽちょう)

 

 振甫町の町名は、江戸時代の明国の帰化人である張振甫(ちょうしんぽ)にちなむとされています。張振甫は尾張藩の医師として御用を務め、特に食品による治療に優れていたといわれています。

 一帯は東山の丘陵地帯の端に位置し、江戸時代振甫新田といわれ、ため池として振甫池や鉄砲坂池がありました。これらの池は昭和4年に埋め立てられ、同8年に振甫プールが建設されました。振甫プールは国際大会が数多く開催されるなど、日本有数のプールでしたが、平成21年3月に廃止されています。

 また、四観音道西にある鉈薬師(なたやくし)は、張振甫が上野村の永弘院(ようこういん)にあった薬師堂を移したものです。堂内には本尊の薬師如来坐像のほか、鉈彫りで有名な円空作と伝えられる十二神将の像などが安置されています。現在は防犯上普段は閉め切られていますが、弘法様の縁日が開かれる毎月21日、午前10時より午後2時まで開門され拝観することができます。 

「泳心一路」碑 (古橋廣之進)

鉈薬師山門