5月下旬のユリ園
左:晩秋の千種公園 右:雪の千種公園
昭和45年開園。面積5.94ha。この公園のあたりは旧名古屋陸軍造兵廠千種機器製作所の跡地で、戦争中はここで兵器の生産が行われた。敷地の大部分が国有地である。広々とした公園内には野球場、テニスコート、児童遊園地、ユリ園などがある。とくに6月のユリ園は1万株のユリが咲きそろって見事(⇒)で、多くの来園者で賑わう。
(碑 文)
ここは元名古屋陸軍造兵廠千種製造所の所在地であって大正八年開所以来兵器を製造して国家の要請に応え多大の貢献をした由緒ある地である
太平洋戦争において全従業員は祖国愛に燃えて職域を固守したのであるが不幸にして昭和二十年三月以降数度の爆撃を蒙って六十九名の犠牲者を出し これに戦前の公務による死亡者五名を加えて計七十四名の殉職者を出したことはまことに痛恨の極みである ここに有志相図り旧構内にこの碑を建立して記念としあわせて永遠の平和をこい願うものである
昭和四十三年六月 元名古屋陸軍造兵廠千種製造所 関係有志一同
民間戦災傷害者の碑
千種公園西南入口に「民間戦災傷害者の碑」が建設され、平成26年11月13日、全国戦災傷害者連絡会・杉山千佐子会長、河村・名古屋市長、その他関係者が列席して除幕式が行われた。
「第二次大戦の末期、再度の名古屋空襲はこの地にあった名古屋陸軍造兵廠千種製造所に甚大な被害を与えた。この碑はその爆撃による痕跡を残す外塀の一部を移設し戦争の記録として残したものである。
昭和六十二年一月」
「泳心一路 古橋廣之進
振甫プールの歴史をここに讃える
名古屋市振甫プールは昭和八年に竣工し、国際大会が数多く開催されるなど、日本有数のプールでした。
戦前・戦後の苦しかった時代から、長きに渡り市民の憩いの場として親しまれたが、多くの市民に惜しまれつつ、平成二十一年三月にその歴史に幕を下ろすことになりました。
名古屋市教育委員会 平成二十二年二月」
かつて、水道みち緑道の北側、大木に覆われた小高い塚の上に「正受翁遺愛碑」と刻まれ石碑があった。碑文によると、名古屋新田頭兼松民弼(たみすけ)が父兼松宗右衛門(法号正受)の功績を顕彰するために「文政二年己卯秋九月」(1819)に建てたものという。 当学区内には数少ない貴重な史跡である。この塚は取り壊されて更地となったが、石碑は平成24年、水道みち東端に移設された。
下の写真は移転前の兼松塚。碑は傾き、灯籠は倒れ、荒れ果てていた。
祭神は第十五代応神天皇(誉田別命 ホンダワケノミコト)。江戸時代初期の慶長15年(1610)、名古屋城が築かれ、城下町の人口が増加するとともに、古井村(コイムラ、現千種区西部)の原野の開墾が始まった。これらの開墾地は名古屋新田と呼ばれていた。寛永十年(1633)、名古屋新田を支配していた大庄屋兼松源蔵が石清水八幡宮の分霊を勧請し、邸内に祀った。のち現在地に社殿を造営し、名古屋新田の人々の鎮守とした。社殿は昭和20年6月の空襲で焼失した。現在の社殿は昭和26年に建立されたものである。境内の末社として秋葉社(防火の神)、須佐之男社(疫病を防ぐ神)、洲原社(五穀豊穣・縁結びの神)、鎭霊社(戦没者・千種警察署殉職者慰霊の祠)、飛び地境内社として辨天社・竜神社、蝮ヶ池西八幡社がある。
弁天社・龍神社 千種区池下2-30
地下鉄池下駅から東方にかけて、蝮ヶ池という大池があった。大正10年、千種耕地整理組合が発足し、翌年から池の埋め立てが始まった。このとき、水の神である龍神様(池主大神)を祭り、併せて水に縁のある辨天社(市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)が合祀されたと伝えられている。
西暦1633年頃、蝮ヶ池八幡大神様を一時仮安置された由緒ある神社である
本堂
左:山門 右:五重の塔
鉈 薬 師
寛文九年(1669)明国の帰化人、張振甫が、もと上野村陽光院(現、永弘院)にあった薬師堂を、尾張二代藩主徳川光友の援助を得て移したもので、医王堂ともいわれる。堂内には本尊の薬師如来座像のほか、鉈彫りで有名な円空(江戸時代初期の僧)作と伝えられる日光・月光の二菩薩、守護神の十二神将の像が安置してある。 境内に、画人中林竹洞や山本梅逸らの碑がある。
名古屋市教育委員会
上:山神社 下左:入り口・鳥居・標柱 下右:蕃塀
張振甫墓所
振甫は明(今の中国)の人、明末の動乱を逃れ、曹数也らと共に帰化した。
京都から江戸(東京)に向う途中、知遇を得た尾張藩祖徳川義直から侍医となるよう懇請されたが固辞し、広く庶民の医療に携わると共に公用あるときは出仕した。彼は食物に精通し、食中毒の治療に優れていた。
二代光友の時、この地に禄を与えられ永住した。円空仏で知られる鉈薬師堂は、振甫が藩主に請うて祀ったものといわれる。なお、振甫町の名は張振甫に由来している。また、墓はこの奥三〇mのところにある。
名古屋市教育委員会
東山給水塔 1930(昭和5)年完成。高さ37.85㍍の鉄筋コンクリート製。1973年まで配水塔として使用。1979(昭和54)年かRQあ災害時の応急給水施設として再利用され、最上部のタンクには約10万人の1日分の飲料水が蓄えられている。
とんがり帽子の屋根は1983(昭和58)年の改修時に後づけされたもの。
(名古屋開府400年記念誌『尾張名古屋大百科』より引用。学区外の施設だが、学区のどこからでも目に付くものだから、ここに登場ねがった)